私が毎日手を合わせている金色の幸福の象徴
阿弥陀如来様
私がここ、光心寺の阿弥陀様とお会いしいして5年以上経ちます。
〈導かれた〉としか思えないような不思議な出来事が重なり、瞬く間に廃寺からの再生を遂げました。
当たり前のように今、毎日誰かが足を運んでくださり、そこに笑顔の日常が生まれています。
当たり前のような毎日は、実はあり得ない奇跡が重なって復活したミラクル劇なのです。
いつかそんなお話もしていきますね。
私を引き寄せることで、阿弥陀様はいったい何を行い、何を伝えようとしているのか。
そこを魂と肉体を持って体現することが私の使命である気がしています。
とはいえ、私は信仰心からお寺という場に身を寄せている訳ではないし
現状も仏道に入ったわけでもなく、
ただ、阿弥陀様への感謝の想いと愛と常に溢れていて
阿弥陀様に包まれて生きている感覚が常にある(図々しい思い込みです 笑)
そんななんとも不思議な立ち位置と感じています。
阿弥陀如来はかっこいい
なんで阿弥陀様はかっこいいのかというと
阿弥陀如来が作った極楽浄土って
一切衆生すべての生ある人の幸せを願って作られた世界なんです。
いい事しかしてない人が天国いけるんだよーというケチなこと言わないの。
例えば…
開発が進んで病気がこの世から消えたら病苦が消えて幸せな人は増えるけど
人が死ななくなったら衣食住の自由はどんんどん奪われるでしょうし
それによって30年後の未来に生まれてくる子供を迎える余地がなくなる。
お医者さんは病気がなくなって、しかもAIが治療できる世になってしまったら
お役御免になって幸せな状態ではなくなる。
人だけにとことん都合が良い世の中になるほどに
自然界の生物たちは生きにくくなり困ってしまう訳ですし。
大好きなAちゃんと結婚できたB君はハッピーだけれどフラれたC君は失意の底。
そんなC君も3年後には誰もが羨む温かな家族を作っていて
B君はAちゃんとは家では目も合わせず、外では愚痴だらけの毎日かもしれない。
あ、これはつい先日聞いた実話で
初めてのお給料をいただいたD君はすっごく嬉しくて
大好きな彼女にいつもありがとうってプレゼントを渡した。
その翌日に感謝を込めて高級お寿司ディナーにご両親を招いた。
とっても素敵な事だと思うんですけどどうですか?
しかし面白いもので…
ご馳走されたお母様は喜びながらも、彼女にはプレゼントを渡してた
しかも自分への食事よりも早く!ということで悲しいと怒り落ち込んだそうです。
うーーーーん。
さらに
D君のお給料より自分の方が方が数万円少なかったと知った同僚が
その事実が納得いかずにD君にも上司にも目も合わせなくなってしまった、とかとか。
うーーーーん。
目の前にやってきた出来事をどうキャッチしごきげんで生きるかは大切なことなんだけど
ではでは
幸せって誰が決めるの?
誰かの不幸の上に誰かの幸せが、誰かの涙の向こうに誰かの笑顔が成り立つ。
そういう構図って立場や関係性や価値観などに大きく左右される《相対的》なもので
この人間界で生あるあらゆるものがすべてもれなく幸せって難しい事ですねー。
阿弥陀如来が構築した極楽浄土という世界って
この世の相対的な幸せの価値とは真逆なもので
阿弥陀様が願った幸福とは絶対的な幸福。
差別や比較などはまったく通じない世界。
優劣?貧富?なんだいそれ?って世界。
極楽浄土に来てハッピーになりたいなら
みんなで歌おうぜ!
『南無阿弥陀仏!yeah!』
そう!みんなもっと大きな声で!
このハートにビンビン届けてくれよ!
『南無阿弥陀仏!ooh!yeah!』
カモーン!!
ROCKだねー!!!
って。そんなにふざけてるつもりもなく
こんなライブパフォーマンスをシンプルに体現していくのが私の役割かなー?
なんて…。
難しい宗教思想はまだわからないことがたくさんです。
あまりに深くて、宇宙は広くて。
なので美み子の小宇宙で言葉にできること
私が阿弥陀如来様から受け取っているメッセージ
こうして時々言葉にしてみます。